マーラー交響曲第10番

マーラー「交響曲第十番」 (R.マゼッティ復元版)
レナード・スラットキン指揮 セントルイス交響楽団


マーラーの十番

 新譜の解説に入る前に、まずはこの曲について少し説明しておかなければならない。

 マーラー「交響曲第十番」。実はマーラーはこの交響曲を完成させてはいない。一九一〇年春にあの交響曲第九番を書き上げると、マーラーは直ちに次の第十番の作曲に取りかかった。翌年の夏には全曲が完成する予定だったが、一九一一年二月に病に冒され、曲の完成を見ないまま五月十八日にウィーンで息を引き取った。マーラーの恐れた「第九番のジンクス」は図らずも当たった。

 残されたスコアのうち、フルスコアに近かったのは第一楽章アダージョと第三楽章「プルガトリオ(煉獄)」の一部のみ。残りは四段のショートスコアになっていて、一応最後まで楽譜はつながっていた。よって現在マーラー「交響曲第十番」として演奏されるのは、一般的に第1楽章「アダージョ」のみである。読者の中にも第一楽章だけは聴いたという方が多いと思う。

 しかし一方で全曲完成への試みは何度かなされ、一九六〇年、イギリスの音楽学者デリク・クックによってついに最初の全曲版が完成した。一九七六年には第二稿、一九八九年には第三稿(決定版)とさらに完成度の高い稿が出版された。「第十交響曲」の全曲版と言えば、このD・クックの補筆完成版(復元版)を指すのが普通である。  

もう一つの第十番

 私も「第十番」全曲版といえばD・クック版しか聴いたことがない。最初はパッケージに記された『ed.Remo Mazzetti』を見て、なんのことだろうと理解できずにいた。

 このCDで採用されているマゼッティ版は、クック版のあとにできたバージョンで、全曲版初演は一九八九年、CD化はこのスラトキン、セントルイス響盤が初めてである。

 さて、クック版との比較に入ろう。明らかに違うのが音の厚みである。 クック版は「マーラーが残したままの交響曲を演奏可能な版に仕上げる」ことを目標とし、対旋律や和声、ダイナミクスの付加に関しては驚くほど禁欲的だった。聴いてみると、ほぼフルスコアになっていた第一楽章アダージョを除いて、マーラーの作品としてはあまりにもシンプルに、ホモフォニックに聞こえる。

 マゼッティはクック版をオーケストレーションが不十分で薄すぎるとし、自分自身の版を完成させた。よってオーケストレーションの密度が濃いのは当然と言えよう。

 たしかに、補筆をやり過ぎると、曲としての完成度は高くなるが、どこまでがマーラーの作品でどこからが補筆者の作品なのか、境界線を引くのが難しくなってくる。そこが補筆の一番難しいところだが、その議論はいったんおいて、一度このマゼッティ版を聴いてほしい。特にクック版を聴いたことがある方は是非聴いてもらいたい。

 特に第五楽章フィナーレ。クック版で聴いても世にも美しい旋律は感動的だが、なにか食い足らなさを感じてしまう。どこかしら薄っぺらく、寒々と聞こえる。 それがこのマゼッティ版ではなんと温かく聞こえることだろうか。低音部がしっかりとして、音色が実に豊かである。我々をマーラーが、自分からどんどん離れていく妻アルマに対し、最期に捧げたラブソング――そう、このフィナーレ(特にコーダ)は『ラブソング』なのだ。温かく包み込むように奏でられなければならないのだ。

 それにひきかえ残念なのがフィナーレの終結部、短十三度跳躍するグリッサンド後の和音である。マゼッティはなぜティンパニを加えたのか。浄化に向かうカンタービレ。限りなく透明に近づいた後の身を切られるようなグリッサンド。その後にはなにもティンパニは必要ないはずである。ティンパニは、浄化とは正反対の混沌を表す楽器である。マゼッティとしてはグリッサンド後の和音に華々しさを求めたのだろうが、グリッサンド後のため息をつくかのような下降旋律――そこには華麗さなど必要はない。

その他の第十番
 冒頭の解説のような事情により、「交響曲第十番」全曲のCDは非常に少ない。私が把握している限りでは、先述したマゼッティ版を含めて七種類(うち廃盤1種類、輸入盤二種類)。私はこのうち五種類のCDを持っているが、ここで残りの四種類のCDを極めて簡単に紹介しておこう。(もし他の盤を見つけたという方は、どうか私までご連絡ください。是非聴いてみたいので。)

◆サイモン・ラトル指揮 ボーンマス交響楽団
 オーケストラの技量が曲に追いついていない。弦の未熟さはごまかせても、金管楽器が駄目だとマーラーの音楽は冴えないものになってしまう。全体として平板な印象も受ける。


◆クルト・ザンデルリンク指揮 ベルリン交響楽団

 クック版では一番気に入っている。妥協することなく堅牢に組み立てられた演奏が、緊張感のある引き締まった演奏を生んでいる。第五楽章ではマゼッティ版の演奏に劣らない音色の厚みを引き出している。

◆リッカルド・シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団

 全体的にやや遅めのテンポをとり、一音一音しっかりと叙情的に謳い上げている。部分的にテンポが遅すぎて違和感を感じることもあるが、まあ、これは『馴れ』の問題であろう。

◆エリアフ・インバル指揮  フランクフルト放送交響楽団
 最後のグリッサンドをゆっくり上げていくところは面白いが、全体として音が薄く、冷え冷えとした印象を受ける。クック版第二稿を使用しているせいか。


(3年以上前に書いた文章を再掲しました)
(ちなみに、この文章を書いた後、ロンドンでオーマンディ版を入手しました。また、ウィーンの名前は忘れたけど有名な楽譜店でスコアまで購入してしまいました)